「自己責任」と言われ続けた氷河期世代へ。小泉・竹中改革から20年、非正規と低賃金の“答え合わせ”

非正規雇用、低賃金、少子化、そして今も続く氷河期世代支援。小泉・竹中改革から20年以上が過ぎた今、「自己責任」とされてきたものは本当に個人だけの責任だったのか。パソナとの関係も含めて検証する。

「給料が安いなら転職すればいい」「非正規なのは本人の選択」「結婚しないのも子どもを持たないのも価値観の変化」「老後が不安なら若いうちから資産形成を」。日本では長い間、仕事や所得、生活の苦しさについて、最終的には個人の選択と努力へ話を戻す「自己責任」という考え方が強く使われてきた。

ところが2026年9月7日、PRESIDENT Onlineに掲載された記事は、この自己責任論をかなり正面から批判した。海外メディアが日本の貧困を相次いで取り上げ、IMFやOECDなどが低賃金の非正規雇用や所得再分配の弱さを指摘しているとして、「日本人が貧しくなったのは、本当に本人たちの努力不足なのか」と問いかけている。

40代・50代、とりわけ就職氷河期世代には笑えないテーマだ。景気が悪い時代に社会へ放り出され、正社員になれなければ「努力不足」、所得が伸びなければ「スキル不足」、家庭を持てなければ「本人の選択」と言われる。そして少子化が危機的な水準になると、今度は国を挙げて対策を始める。

個人が苦しい間は自己責任。しかし人数が多すぎて国家の問題になったら政策課題。ずいぶん都合のいい境界線ではないだろうか。

日本の貧困は「景気が悪かったから」で終わる話ではない

PRESIDENT Onlineの記事が興味深いのは、日本の生活苦を海外から見た視点だ。記事では、かつて豊かな国として知られた日本で、シングルマザー、非正規の若者、高齢者などが厳しい生活を送っている状況を海外メディアが取り上げていることを紹介している。

さらに2024年のIMF分析について、女性や高齢者の就労増加による格差縮小効果が、低賃金のパートや非正規雇用への集中によって相殺されたと説明している。また2026年のOECD分析では、日本企業が非正規労働者を景気変動への「調整弁」として利用してきたという指摘も紹介されている。

ここは重要だ。「日本人が急に怠け者になったから所得が伸びなかった」という説明ではない。どのような雇用を認め、企業がどこまで人員を柔軟に調整できるようにし、そこで生じた所得格差を税や社会保障でどこまで補うのか。それは明らかに制度設計の領域でもある。

それにもかかわらず、結果だけを個人へ返して「あなたの市場価値が低かったからです」と言えば、政策を検証する必要はなくなる。自己責任という言葉が便利なのはここである。

小泉・竹中改革と派遣労働を、まず事実から整理する

この話をすると必ず出てくるのが、小泉純一郎元首相と竹中平蔵氏である。ただし批判するなら、雑な歴史認識で殴ってはいけない。

労働者派遣法そのものを作ったのは小泉政権ではない。法律は1985年に成立し、翌1986年に施行された。その後1999年には対象業務が原則自由化され、派遣労働の規制緩和は小泉政権以前から進んでいた。

一方で、小泉政権下の2003年の法改正、2004年施行によって、それまで禁止されていた製造業務への派遣が解禁された。派遣可能期間の延長なども行われ、派遣という働き方を日本の労働市場のさらに広い領域へ拡大した時代だったことは否定できない。

そして小泉政権の経済政策を象徴する人物の一人が竹中平蔵氏だった。竹中氏は2001年から経済財政政策担当相などを歴任し、構造改革・規制改革を推進する側にいた。その後2007年に人材サービス大手パソナの特別顧問となり、2009年にはパソナグループの取締役会長へ就任している。

ここで「たまたま転職しただけですね」で済ませるには、さすがに話が出来すぎて見える。

もちろん、竹中氏が大臣時代に「将来自分がパソナで利益を得るために派遣法を改正した」と証明された事実があるわけではない。そこまで断定すれば根拠を超える。しかし、労働市場の規制改革を強力に唱えてきた政治家が、その後、その規制環境と密接に関係する人材サービス企業の会長になった。この経歴を見て、国民が「政策を作る側と、その市場で利益を得る側の距離はそれでいいのか」と疑問を持つことは極めて自然だろう。

竹中氏とパソナをめぐる「利益相反」の疑問は、ネットの陰謀論ではない

しかも、この疑問はSNSで誰かが勝手に作った話ではない。国会でも実際に問題として取り上げられている。

2014年の衆議院・地方創生に関する特別委員会では、竹中氏が人材派遣会社パソナグループのトップでありながら規制改革を推進する立場にいることについて、議員から利益相反ではないかという趣旨の追及が行われた。国家戦略特区を利用した事業へ、規制改革によって利益を得る可能性のある企業が参入する構図についても質問されている。

2018年の衆議院厚生労働委員会でも、民間議員が私的利益のために議論を誘導したり、利益相反に当たる発言をしたりすることを防ぐ必要性が指摘された。2020年の参議院国土交通委員会でも、竹中氏とパソナ、人材派遣法改正などをめぐって利益相反ではないかという批判が改めて取り上げられている。

つまり「竹中―パソナ」という関係について疑問を呈すること自体を、感情論や陰謀論として片づけるのは無理がある。国会という公的な場でも、政策決定に関与する人物と、その政策分野で事業を展開する企業との距離について繰り返し問題提起されてきたからだ。

そして、ここで本当に考えるべきなのは竹中氏個人の好き嫌いではない。政策を作る側と、その政策によって市場が拡大する業界との距離をどう保つのかというガバナンスの問題である。

規制を緩和する。市場が広がる。その市場で企業が成長する。そして規制改革を推進してきた人物が、その企業の経営トップになる。

これを見て「国民は何も疑問を持つな」という方が無理がある。

「雇用の柔軟化」という美しい言葉の裏側

企業から見れば、派遣や有期雇用を活用できることには合理性がある。景気が悪化したときに人件費を調整でき、繁忙期には必要な人員を増やせる。正社員だけで組織を構成するより経営の自由度は高くなる。

しかし企業側の「柔軟性」は、そのまま労働者側の「不安定性」でもある。企業が雇用リスクを抱えなくてよくなった分、そのリスクが消滅したわけではない。契約が更新されるのか、来年も同じ収入があるのか、年齢を重ねても仕事があるのかという形で、働く側へ移っただけだ。

政策用語では「労働市場の流動化」「多様な働き方」「雇用の柔軟性」と呼ばれる。実に爽やかな言葉である。

だが流動しているのは人間だ。住宅ローンがあり、子どもの学費があり、老後があり、親の介護もある人間である。

会社の固定費を変動費に変えれば、経営上の数字は扱いやすくなる。しかし変動費にされた側にも人生がある。この視点を抜いたまま「改革は正しかった」と評価することはできない。

非正規は今も2000万人を超える

非正規雇用は一時的な現象として消えたわけではない。2025年平均の総務省「労働力調査」では、正規の職員・従業員は3708万人、非正規の職員・従業員は2128万人。役員を除く雇用者の36.5%を非正規が占めている。

もちろん、この2128万人をすべて「望まない非正規」と扱ってはいけない。学生、パートで働く配偶者、高齢者、自分から柔軟な勤務形態を選んでいる人も含まれる。

それでも、日本の雇用者の3人に1人以上が非正規という状態が定着していること自体は重い。

さらに国税庁の2024年分民間給与実態統計調査では、1年を通じて勤務した給与所得者の平均給与は478万円だった。正社員・正職員では545万円、正社員・正職員以外では206万円である。

両者を単純比較して「同じ仕事なのに339万円も違う」と言うことはできない。労働時間や職種、年齢構成などが異なるからだ。しかし、非正規という働き方が低い年間所得と強く結びついている現実まで消えるわけではない。

年収206万円で「将来を考えろ」と言われても困る

年収206万円を単純に12カ月で割れば月17万円ほどになる。もちろんこれは手取りではないし、すべての非正規労働者の生活を表す数字でもない。それでも、長期にわたって低所得の状態に置かれた人が、住宅取得、結婚、子育て、老後資金まで計画することが難しいのは容易に想像できる。

ところが日本では長い間、「若者の○○離れ」という言葉が流行した。車離れ、結婚離れ、消費離れ、酒離れ、旅行離れ。まるで若者の価値観が突然変異したかのように語られた。

所得が十分に伸びず、雇用も安定しない人に「なぜ高い買い物をしないのか」と尋ねる。これはなかなか高度な謎解きである。

そして結婚や出産も同じだ。子どもを持つという選択には、今月生活できるかだけではなく、5年後、10年後にも収入があるという見通しが必要になる。

人間は景気統計ではない。「将来が見えない」というだけで、大きな決断を延期する。

そして出生数は67万人台まで落ちた

厚生労働省の2025年人口動態統計月報年計(概数)によると、出生数は67万1236人、合計特殊出生率は1.14となった。

もちろん少子化の原因を派遣労働だけに求めることはできない。未婚化、晩婚化、住宅費、教育費、長時間労働、子育て負担、人口構成、価値観の変化など、多数の要因が絡んでいる。

しかし「所得や雇用の安定性は関係ありません」と言うのも無理がある。

20代、30代には市場原理への適応を求め、雇用の不安定化を「多様な働き方」と呼び、生活が苦しければ自己責任を求める。その一方で出生数が危機的な水準まで落ちれば、今度は少子化対策として税金を投入する。

入口で不安定にして、出口で補助金を配る。これを効率的な制度設計と呼べるのかは、かなり疑問である。

氷河期世代への支援が2026年にも必要なこと自体が「答え」ではないか

さらに皮肉なのが、政府が2026年になっても就職氷河期世代への支援を続けていることだ。

政府は2026年4月10日に「新たな就職氷河期世代等支援プログラム」を決定した。就労・処遇改善だけでなく、社会参加、高齢期を見据えた家計改善や資産形成まで支援対象としている。

考えてみれば不思議な話である。

若い頃に正社員になれなかったのは自己責任だったはずなのに、20年以上たって国が「この世代には特別な支援が必要です」と認めている。

もし本当に個人の努力だけの問題だったなら、なぜ世代単位の政策が必要なのか。

答えはかなり明白だろう。卒業した年の景気や採用環境という、本人にはどうすることもできない条件が、その後の所得やキャリア形成へ長く影響した人が大量に存在したからである。

20代で「頑張れ」。

30代で「スキルを身につけろ」。

40代、50代になって「国が支援します」。

遅い。あまりにも遅い。

25歳から積めた20年間の職歴を、45歳から「リスキリング」で完全に取り戻すことはできない。資格を一つ取れば20年分の昇給や厚生年金加入期間まで戻ってくる、などという魔法もない。

「自己責任」という言葉は誰に便利だったのか

自己責任という考え方そのものを否定する必要はない。40代になれば、自分の人生について自分で判断しなければならない。転職するか、会社に残るか、何を学ぶか、何にお金を使うかは最後には本人が決める。

しかし、景気や採用人数、労働法制、税制、社会保険制度、最低賃金、企業がどのような雇用形態を使えるかは個人には決められない。

そこまで全部「あなたの市場価値の問題です」と言われたら、政策を作る側は非常に楽だ。

所得が低いのは本人の責任。結婚できないのも本人の責任。貯蓄が少ないのも本人の責任。老後が苦しいのも本人の責任。

そして、その人たちが大量に高齢化して社会保障問題になったら「国民全体で考えましょう」となる。

自己責任は、ずいぶん片道切符のような言葉である。

利益は市場へ、リスクは個人へ。問題が巨大化したら公費で対策する。その構造について検証することまで「他責思考」と呼ぶ必要はない。

40代は「小泉・竹中が悪かった」で終わっても救われない

ここまで厳しく書いてきたが、RClassとして最も重要なのはここからだ。

過去の政策を批判するだけでは、今の40代の所得は1円も増えない。竹中氏に腹を立てても住宅ローンは減らないし、小泉改革を検証しても自分の厚生年金加入期間は戻らない。

だからこそ、制度の責任と自分の人生を分ける必要がある。

自分が悪くなかった部分まで「努力不足だった」と背負わない。その一方で、これから変えられる部分まで「政治が悪い」で止めない。

まず、自分の現在地を数字で確認する。年収、金融資産、住宅ローン残高、退職金見込み、年金見込み、毎月の固定費、会社を辞めた場合に何カ月生活できるか。50歳前後になれば、漠然とした不安より数字の方が役に立つ。

仕事についても同じだ。会社の肩書ではなく、自分が外で何を売れるのかを確認する。転職する気がなくても求人を見る。職務経歴書を書く。AIによって自分の仕事がどう変わるのかを見る。副業が可能なら、小さく社外収入を作る。

これは「結局自己責任じゃないか」という話ではない。

制度の失敗を個人の責任にされることと、自分の人生を自分で守ることは別物だ。

公的支援を使うことに遠慮する必要はない

就職氷河期世代には、公的支援を使うことに抵抗を感じる人もいるかもしれない。長く自己責任と言われてきた世代ほど、「国に頼るのは恥ずかしい」と考えやすい。

しかし政府自身が2026年にも氷河期世代等支援を続け、就労、リスキリング、社会参加、家計改善、資産形成まで政策対象にしている。

対象になる制度があるなら使えばいい。

雇用保険、職業訓練、社会保険、年金、税控除、自治体支援も同じである。税金や社会保険料を徴収されるときに「私は自己責任で生きるので払いません」とは言えないのだから、給付や支援を受ける側だけが妙に遠慮する必要はない。

制度を調べ、条件に合えば使う。それも40代からの生活防衛である。

小泉・竹中改革から20年、そろそろ「結果」で評価していい

政策は理念だけではなく、結果で評価されるべきだ。

規制改革によって企業活動が効率化した部分はあるだろう。派遣という働き方によって労働市場へ参加しやすくなった人もいる。その後、派遣労働者保護や同一労働同一賃金など、制度を修正する政策も導入されてきた。

しかし、それだけで答え合わせを終えることはできない。

2025年にも非正規雇用者は2128万人いる。2024年の国税庁統計では、正社員・正職員とそれ以外の平均給与には大きな開きがある。出生数は2025年に67万人台となり、政府は2026年にも就職氷河期世代を対象とする新たな支援プログラムを決定している。

これらすべてを小泉氏と竹中氏だけの責任にするのは歴史として雑だ。しかし逆に、当時の政策選択や労働市場改革を検証対象から外し、「時代の流れでした」「本人の選択でした」で終わらせるのも雑である。

そして竹中氏については、規制改革を推進した人物が後にパソナグループ会長となり、さらに規制改革に関わり続けたことで、利益相反への疑問が国会でも繰り返し提起された。この経緯まで「関係ありません」で済ませる必要はない。

政治家や政策立案者には、政策の意図だけでなく、その結果と公正さについて説明する責任がある。

それこそ本来の「自己責任」ではないだろうか。

結論――氷河期世代だけが、いつまでも自己責任を負う必要はない

氷河期世代は若い頃、会社に入れなければ努力不足と言われた。所得が上がらなければスキル不足と言われ、結婚や出産が遅れれば価値観の変化と言われた。老後が近づけば、今度は自分で資産形成をしろと言われる。

そして国は2026年になっても、その世代のための支援プログラムを作っている。

これを見て「やっぱり全部本人の問題でした」と結論づけるのは、さすがに無理がある。

小泉・竹中改革だけで今の日本ができたわけではない。しかし「改革」の名の下で企業側の柔軟性を高め、雇用リスクの一部を働く側へ移した時代があり、その後、人材サービス産業が巨大な市場になった。そして改革を推進した中心人物の一人が、後にその業界の大手企業パソナグループの会長になった。

この事実をどう評価するかは読者に委ねればいい。

ただ、少なくとも「何も関係がないから考える必要もない」という話ではない。

40代・50代が今やるべきなのは、過去を忘れることでも、過去だけを恨むことでもない。何が自分の責任で、何が制度の責任だったのかを一度切り分ける。そして、これから自分で変えられる仕事、お金、健康、家族、人生設計に力を使う。

就職する時代は選べなかった。派遣法も選べなかった。景気も選べなかった。会社が正社員を何人採るかも選べなかった。

だが、これからの10年をどう守るかは、まだ選べる。

だからもう、「全部あなたの自己責任です」という便利な言葉を、そのまま受け取る必要はない。

20年以上たって国自身が氷河期世代支援を続けているのなら、ある意味で答え合わせはもう始まっている。

そして当時「改革する側」にいた人たちにも、改革された側と同じくらい、自分たちが作った結果について語ってもらえばいい。

自己責任という言葉がお好きなら、なおさらである。